海外の店先を観察していると、言語がすれ違ったまま会話が成立しているのかしていないのか、よく分からない場面によく出くわす。今回はそんな、通じているようで通じていない会話について。
中国語で押し通す、という選択
オーストラリアのような英語圏でよく見かけるのが、明らかに現地の白人スタッフを相手にしているのに、口から出てくる言葉が最初から最後まで中国語、という会話だ。身振り手振りは一生懸命なのだが、肝心の言葉が変換されないまま語気を強めながら突っ込んでいくスタイルである。
見ている側としては、その熱量と身振りのわりに、店員さんの表情はだんだん困惑していくのが分かるので、正直ハラハラしながら見守ってしまう。それでもなぜか最終的に通じてしまうこともあり、言語というのは案外、勢いと身振りだけでどうにかなる部分があるのかもしれない、と思わされる瞬間でもある。
日本語混じりの英語、という別の押し通し方
一方で、日本人、特に年配の方によく見られるのが、これはこれで独特の押し通し方だ。「ディス イズ とても グッド」のように、英語で始めたはずの文が、途中からするりと日本語に切り替わる。最後には決まって「ありがとう」で締める。
聞いていて毎回思うのだが、そこはもう「サンキュー」でええやろ、と。せっかく「This is」まで英語で来たのだから、最後の挨拶くらいは押し通してくれてもいいはずなのに、なぜか一番大事な形容詞と締めの挨拶だけ日本語に戻ってしまう。律儀と言えば律儀だし、潔さがないと言えばそれまでである。
どちらも、実は似た者同士なのかもしれない
中国語で押し通す人も、日本語混じりの英語で押し通す人も、根っこにあるものは同じ気がしている。伝えたい気持ちが、正しい言語を選ぶことよりも先に体から出てしまっているのだ。文法や語彙が完璧かどうかより、まず口が動いてしまう、という点では、どちらも同じくらい潔い生き物なのだと思う。正しさより勢いを選べる人間の方が、結局この世界ではうまく渡り歩けるのかもしれない。理屈をこねている側は、いつも観察するだけの立場に甘んじている。
こうして人の会話を観察して面白がっている自分は、いざ自分が言葉に詰まったとき、果たしてどちらのタイプに転ぶのか。案外、勢いで押し通す側に回りそうな気がしていて、それはそれで少し怖い話である。人を観察して優越感に浸っている人間ほど、いざ自分の番になると一番みっともない醜態を晒すものだ、というのは、大抵の物語で語られてきた真理でもある。詰まりに詰まって、なんとか絞り出した一言に対して、相手から失笑を返されたときのあの恥ずかしさだけは、消したくても消せない思い出として蓄積されてしまう。

