香港国際空港に着陸して、機内モードを解除する。いつもの動作だ。
韓国でも、シンガポールでも、ベトナムでも、これで終わりだった。数秒待てば電波を掴み、地図が開き、メッセージが流れ込んでくる。事前にeSIMを入れておくというのは、そのための準備である。
香港でも、同じことをした。
電波は掴んだ。画面の上には5Gと出ている。アンテナはビンビン満タンだった。
だが、何も開かない。
電波は立っている。それなのに、何も動かない
ブラウザを開いても、読み込みが進まない。メールも降ってこない。地図は、まっさらな灰色のまま止まっている。
圏外なら、まだ話は早い。電波がないのだから、諦めもつく。だが画面には5Gと表示されている。**繋がっているように見えて、何も通っていない。**この状態が一番たちが悪い。
やることは決まっている。機内モードをオンにして、オフにする。変わらない。もう一度やる。変わらない。電源を落として、入れ直す。変わらない。
私は同じ動作を、他の乗客に押されながら何度か繰り返した。何かの拍子で繋がるはずだ、と思っていた。通信というものは、大抵そうやって直ってきたからだ。
このとき、私のスマホにはショートメッセージが1通、届いていた。
開かなかった。
海外に着いた直後に届くメッセージなど、通信会社からの料金案内か、どこかの広告と相場が決まっている。答えは最初から手の中にあったのに、私はそれを無視して、機内モードを押し続けていた。

空港のWi-Fiで、「香港 eSIM 繋がらない」と検索した
埒が明かないので、空港のフリーWi-Fiに繋いだ。
そして検索した。「香港 eSIM 繋がらない」。
いま思えば、これは滑稽な状況である。通信するために買ったものが通信できず、通信するために別の通信手段を借りている。
検索しながら歩き、入国審査の列に着く頃には10分ほど経っていた。10分というのは、こういう時にはかなり長い。周りの乗客は淡々と進んでいく。自分だけが立ち止まって画面を睨んでいる。
そして、ようやく理解した。
香港では、プリペイドSIMに実名登録が義務付けられている。登録が完了しないと、電波は掴んでも通信は開通しない。
そして、その案内は、あのショートメッセージで届いていた。

開いた瞬間、詐欺だと思った
慌ててメッセージを開いた。英語だったと思う。リンクが1本、貼ってあった。
正直に言う。まず疑った。
考えてみてほしい。海外の空港に着いた直後、身に覚えのない番号から英語のメッセージが届く。リンクを踏めと書いてある。踏むと、パスポートの写真をアップロードしろと要求される。
これを詐欺だと思わない方が、どうかしている。
しかも求められたのは、パスポート情報と、スマホのIMEI番号だった。端末を一意に特定する番号である。氏名や生年月日はパスポートに全部載っているから、実質的に身分と端末の両方を、素性の分からない相手に差し出す格好になる。
検索して調べたばかりだから、頭では正規の手続きだと分かっている。それでも、パスポートを撮影してアップロードする指を止められなかったかというと、嘘になる。
嫌だった。単純に、非常に嫌だった。
だが、通信が使えなければ、この先どうにもならない。私は嫌々ながら、パスポートを撮った。

送信して、1〜2分で開通した
拍子抜けするほど、あっけなかった。
情報を送信して、1〜2分。何の通知もなく、いつの間にか地図が動き出していた。あれだけ何も通らなかった回線が、当たり前の顔をして仕事を始めた。
つまり、登録さえ済ませれば、一瞬で終わる話だった。
私が失ったのは10分と、パスポートを見知らぬサイトに送るという精神的な負担だけである。実害はない。だが、この10分は知っていれば完全にゼロにできた10分だ。
なお、この登録が必要になったのは、香港が定めた制度によるものだ。プリペイドSIMの匿名利用に制限をかける流れは、香港に限らず各国で進んでいる。
なぜ、あのメッセージを開かなかったのか
後から振り返ると、私の失敗は単純だ。届いていたものを、読まなかった。
ただ、これには理由がある。
これまで訪れた国では、**着陸してSIMをオンにすれば、自動的に繋がった。**韓国も、シンガポールも、ベトナムも、タイもそうだった。だから私の中では「着陸=繋がる」が当たり前になっていた。
うまくいっている手順に慣れると、**例外が来たときに疑う先を間違える。**私は「回線がおかしい」と考えて、機内モードを押し続けた。実際には「回線は正常で、手続きが済んでいなかった」だけだったのに。
そして、海外で届く英語のショートメッセージを、私は長年ずっと無視してきた。その習慣が、一番大事な1通を埋もれさせた。
今は、日本で申請を済ませてから行く
現在、香港へ行くときは、出発前に日本で登録を終わらせている。
やることは同じだ。ただ、やる場所が違うだけである。自宅の落ち着いた環境で、慌てずに、疑いながらでも自分のペースで手続きを済ませる。それだけで、あの10分は消える。
**手続きの内容は変わらないのに、置かれた状況だけが違う。**空港の到着ロビーで、入国審査の列に押されながら、初めて見るサイトにパスポートを送るのと、自宅のソファで同じことをするのとでは、意味が全く違う。
ちなみに、繋がらない原因はもう一つある
ここまで香港の話をしてきたが、**実名登録とは無関係に「電波は立つのに通信できない」が起きる場合がある。**私がもう一つ引っかかったのが、これだ。
日本で格安SIMを使っている人は、iPhoneに構成プロファイルというものを入れていることがある。通信の接続先を指定するための設定で、契約時に案内されるまま入れて、そのまま存在を忘れているケースが多い。
これが残っていると、**新しく入れた海外用eSIMの設定と噛み合わないことがある。**症状は香港のときと全く同じだ。電波は掴む。5Gと出る。それなのに何も開かない。
大手キャリアをそのまま使っている人には、この問題は起きない。格安SIMを使っている人だけが踏む落とし穴である。
対処は単純で、**出発前にそのプロファイルを削除しておく。**設定アプリの「一般」から、「VPNとデバイス管理」を開くと、入れた覚えのあるものが並んでいる。該当するものを消せばいい。
ただし一つ注意がある。**消すと日本の格安SIMの通信が使えなくなる。**帰国したら入れ直す必要があるので、契約先の案内ページを事前にブックマークしておくといい。空港に着いてから「入れ直し方が分からない」というのは、行きと同じ失敗を帰りにもう一度やることになる。
香港でeSIMを使うなら、出発前に4つだけ
長々と書いたが、必要な準備は少ない。
**1. 日本にいる間にパスポートの顔写真のページを写真撮っておく。
**2. 到着直後に届くショートメッセージを、必ず開く。**広告だと決めつけない。あれが開通の鍵である。
**3. 格安SIMの構成プロファイルを削除しておく。**該当する人だけでいい。帰国後の入れ直し方も、あわせて控えておく。
**4. 空港のフリーWi-Fiの繋ぎ方を、先に確認しておく。**万一詰まったとき、調べる手段がこれしかない。
これだけで、私が空港で溶かした10分は発生しない。
「電波が立っている」は、繋がっているという意味ではない
私がこの一件で学んだのは、技術的なことではない。
**画面の上のアンテナは、通信できることを保証していない。**5Gと表示されていても、その先で誰かが「この端末は誰のものか分からない」と判断していれば、何も通らない。プロファイルが1つ残っているだけでも、同じことが起きる。
そして、それを教えてくれる案内は、たいてい一番読み飛ばしそうな形で届く。
香港に着いて、電波は立っているのに何も開かない人がいたら、機内モードを押す前に、**メッセージアプリを開いてほしい。**答えは、もう手元に来ている。

